昭和44年9月15日 夜の御理解



「信心する者は木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を言う心持になれよ」と、ほんとに
全ての事に感謝される、全ての事にこのお礼が言えれる、と言う生活が私は幸せな生活だと思いますがネ、そう言う幸せな生活を神様が私共に求めておられる。どうぞ、毎日毎日が有難い、有難い、勿体ない、勿体ない、と言う生活をしてくれよ、と言う処に信心がある訳ですよネ、ですから、この感謝がなされない、又感謝が、喜びが足りない処に問題があるのです。同時に又、真に有難いと思う心、直ぐにみかげの初め、とおっしゃいますから、その有難い、と思う処にです不思議な御かげ、と言うのが展開して行く、不思議な御かげが受けられる訳なのです。ですからどうでも一つ、木の切り株に腰を下ろしても、とおっしゃるのですから、どう言うつまらない事柄の中から、でもです、有難いと言う、お礼を言う、心を忘れてはならんのが信心だと。成るほど金光様の信心は話を聞いて助かる、とおっしゃるから、この御教え一つだけでも、なるほど、と合点が行きますよネ、問題は、必ず感謝のない処から問題が起こっておる。ネ、不幸であると言う人は喜びが足りないから、不幸せ、もゥ喜びのない、いよいよ生活がすさんで来る、ネ、ですから、ここん処を一つ本当に取り忘れない様に、日々信心の稽古をさせて頂くんですヨ、今はあの熊谷さんが、今日は朝の御祈念参ってみえて御届けしとられた。今日は井筒屋のお芝居の会が久留米であっとります、それに今晩行かれて、ところが、もゥ、その観られる間に思われる事ですネぇ、この目が見えるから、こんな素晴らしいお芝居が楽しまれるんだと、この耳が聞こえるから、こんな素晴らしいお芝居が楽しいのだと思うたら、もゥ見えておる事が、聞こえておる事が、もゥ有難うてたまらんじゃったチ、こう言われる。隣にある方がなんと椛目の、元椛目時代のお参りして来よんなさった、お婆ちゃんがお参りして来とんなさった、二人でまァ丁度、隣同士で一番良い場所からお芝居を観せて頂く事を、とにかく、観る事が、聞こえる事が、有難うてたまらんと、今日は思いましたと、こう言うて、お届けをしておられる。今夜出掛けられたら丁度息子さんをまァ、今日、潮の引いたからでしょうネ、その息子さんが、又自動車で迎えに来ておられた、それで、それに同乗させて頂いてから椛目まで乗せて頂きましたら、丁度そこには妹がこちらへお参りをして来られて、あすこでお会いになって、そして一緒に又、今晩はお参り出けた、と言うて喜んでおられます。吉井の方ですから、そのツーっと帰れば、それは何ですけれども、その喜びがやっぱしちょっと、降りてお礼を申し上げて行かなければおられない。そこにネ、熊谷さんの本当の幸せがあると思うんですよネ、お互い思うて見るとネ、お礼を申しあげねばならん事に、不平不足ばっかり言うて、何か一つ、ちょっと困った事があるともゥ、それが自分が最大、この世の中で一番不幸せな者の様に思うております。信心さして頂く者はチョッと幸せを感じるとですネ、もゥ、本当に自分は日本一の幸せ者だ、と言う様に喜ばせて貰う所から、本当に、その喜びが喜びを、又生んで行く様なおかげになって行くのじゃあないでしょうか、そこでネ、私も昨日から、この目が見えておると言う事だけでも有難いじゃないか、と言う御理解を頂いてからですねぇ、もゥ、はざがあれば、こうやって目を瞑っておる、ことにしておりますわたしは昨日から、もゥ、はざがあれば、目をつむっておる、そして目を開けさして頂く時には、やァ見えてる、見えてる、て言う訳なんですネ、全てが見えると言う事の本当に今まで迂闊にしておったなァ、と目が見えるのを当たり前の様に思うておった、だからその目が見えてる、見えてる、と思う時にはですネ、すでに聞こえておる、 聞こえておる、これが動いておる、動いておる、と言う全ての事に有難いものが繋がっていくんですよネ、今日、お風呂に入らせて頂いてからでも私、目暗さんになったつもりで、こうやって自分でもチョッとこう出来る、それとヒゲの時だけチョッと目を開けて、それも両方開くると勿体ないけん、片方開けて見るだけ、そうすると、よォーく目が見える事が解るんです、それが有難いんです、ネ、だからそう言う、時々工夫がいるのじゃないんでしょうかネ、お互いが、だからそれを有難いなァ、目が見えておる事が有難いなァと言うて、お風呂を使わして頂いておる、その目が見えておる、そこの有難いがですネ、聞こえておる事が有難い、動いておる事が有難い、こうしてお風呂に入って極楽、極楽と言うておる事が、なおもって有難いと言う事になって来るんです、だから信心とはネ、そう言う、その喜びが喜びを生んで行く工夫をする事ですネ、お芝居を見せて頂いても、とにかく、あの素晴らしい、もゥ豪華絢爛なその今日の舞台衣装の事を今、もゥお届けをしとられますが、あんな素晴らしい衣装を目の前で、しかもその舞台がそのすぐ傍だったですから、見せて頂いたと言う事が、もゥ見えておると言う事が、もしこれが見えないならばと思うたら有難くて堪らんじゃった、とこう言うとられますネ、そい言う有難くて堪らんと言う心を作って行く事が信心なのですネ、今日、今高野山の御親戚の方がある難儀な問題でこうお届けになっとられます、で、何とか、おさわり 
だん御座いませんでしょうかチ、おさわる、なんかってある筈がない、それは何処までも迷信、おさわりが有ると言うなら、自分の心におさわりが有るとです。喜べないと言うおさわりが有るとです。ネ、ですから、金光様の御信心は話を聞いて助かる道ですから、決して迷信的なものじゃありません。ネ、おさわりて何てあろう筈がないです。それを有る様に迷信する処にやはりおさわりがある様な結果が生まれて来るです。だからそう言うのは喜びで払っていかにゃあいかん、喜びで払うて行かにゃあいかんネ、してみると、一つ難儀と言うものは、その難儀と言う事の他はみんな、手も動いとる、目も見えておる、耳も聞こえておる、と言う様な最高、最大のおかげを受けておる事を気付かせて頂いて、そこから、喜びの稽古をさして頂くのが金光様の御信心だと思いますネ。どうぞ!!


甲斐田誉